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満員電車のブスを触る貧乏人

その男は、自分の部屋へ入るような足取りで、満員電車に乗り込んできた。

名を、丹波最低賃金という。

貧乏くさい名前だ。

実際、貧乏。

貧乏人がひしめく満員電車の中でも、その男の貧乏は、ひときわ異彩を放っていた。

「ちょっと、いいかな」

おもむろに車内を見渡してから、丹波は口を開いた。

乗客たちの視線が、丹波に向けられた。

その視線を涼しい顔で受け止めながら、丹波は言葉を続けた。

「ちょっと、チカンをさせてもらっても、いいかな」

車内の空気が変わった。

「いま、なんて言ったんだい?」

車掌が丹波に声をかけた。

丹波は、事も無げに答えた。

「チカンをね、させてもらいたいと、そう言ったのさ」

車掌は、しばらく沈黙したあと、わずかに目を細めてから、低い声で言った。

「もう、取り消せないよ」

丹波は、無言のまま、すさまじい笑みを浮かべた。

「おい――」車掌は、一人のブスに目をやった。「おまえが、被害者(あいて)をしてやれ」

ブス「ウス」

返事をしたのは、ブスぞろいの車内でも、ひときわ目立つブスだった。

眉がブス。

瞳がブス。

うなじがブス。

心もブスに違いない。

ブスTシャツの袖からブスリと伸びた腕には、不細工な大蛇のような筋肉が、からみついている。

問答無用のブスだった。

「ブス」という言葉をきけば、世界中の人間が、このブスに限りなく近い物体を思い浮かべるはずである。

進化論を教えないアメリカの学校でも、このブスの遺伝子だけは全力でこの世から消せ、と教えるかもしれない。

それほどのブスであった。

「おまえ――ブスだな」

丹波は言った。

「そう見えるかい?」

ブスは応えた。

「見えるさ」

「たまらないねえ」

「俺もさ」

「ふふん」

両者の間の空間に、目に見えぬ何かが、ゆるゆると満ちていく。

今にも、貧乏人とブスの子供が産まれそうであった。

「やろう」

「やられよう」

そういうことになった。

車掌が、乗客たちを押しのけた。

「くわわっ」

「ぐむっ」

肉が限界まで詰め込まれていたはずの車内に、奇跡のような空白が生まれた。

ブスと貧乏人が向かい合うための聖域である。

その場所には、貧乏人とブスしか立つことはできない。

欲を満たさず、欲を殺さず、ただひたすらに年収をいじめぬいてきた貧乏人。

己のブスを限界までいじめぬき、糞色の小便を流してきたブス。

そんな汚物しか、存在できない空間だ。

その空間に、ブスと貧乏人は立っている。

なぜ、貧乏人はチカンをするのか。

なぜ、ブスはブスなのか。

偶然?

ふん。

運命?

ふん。

自己責任?

ふふん。

たしかに、それもあるだろうが、それだけじゃない。

貧乏人が貧乏人であり、ブスがブスである限り、この場所が満員電車であることは必然なのだ。

この世界は、ブスとブスでないものとで出来ている。

この世界は、貧乏人と貧乏人以外で出来ている。

けっして、満員電車をのろってはいけない。

みんな、昔からのきょうだいなのだから。

「やろう」

「やられよう」

そういうことになったその時、車内の空気が、またしても変わった。

新たに車内へ乗り込んできたのは、黒い男だった。

貧乏くさい細身の体を、貧乏くさい黒の上下で包んでいる。

錆びた釘で線を引いたような、貧乏くさい細目。

そこから、黒い光が放たれている。

髪が黒い。

肌が黒い。

内臓までもが黒そうだ。

どんな金持ちの重病人でも、この男の臓器を移植しようとはしないだろう。

その男は、薄い唇をわずかに開き、そろりと押し出すように言葉を発した。

「面白そうなことを、やってるな……」

「誰だい、あんた?」

「久我ナマポ――と言えば、わかるかい?」

車掌が、うめいた。

「古流レイプの、久我ナマポか……!」



(未完)


あとがき

このブスは絶対に面白い。

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