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ライブの謎のアレがわかった

引きこもりだから、ライブとか行ったことないんだけど、ライブ盤のイントロとかの時とかに入ってる謎の声の心がわかった。

D


無力Pのアルバム、4年ぶり。

最近、昔の邦楽しか聞いてなかった。

浜崎あゆみブルーハーツ筋肉少女帯 → 唐獅子牡丹系 → 頭脳警察青い山脈とか → 昭和維新の歌とか → 浪曲 → 新内

みたいに数だけはたくさん聞いたけど、

これは全部、「何が人の心を動かしてきたのか?」っていう、

ブロガーとしてのお勉強みたいなものだから、無力Pが足りてなかった。

それで、無力Pの新しいアルバム、曲自体は昔のアルバムにも入ってた曲が多いけど、最新型はクリアランスと空間感が最高だった。

頭から順番に聞いて、2曲目の『If』を飛ばして(これ、本当につらくて聞けない)、

それで3曲目の『Aspirin』を聞いて、4曲目の『Sacred Secret』のイントロが流れたところで、思わず声が出た。これだ。

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青二才さんの御質問をうけて

ツイートのまとめと若干の補足を。

複数ルートで、全然意識してない(ヘタしたら嫌いなぐらい)であるゲンロン関係の人と僕が方向性として同じ方を向いていること・同じことを言ってることがしばしばあるのですが…なんでなんでしょうね?

https://twitter.com/tm2501/status/806901526132236288


これは、お答えするのが難しい問題です。

青二才さんの謎の直感の仕組みは、同じブロガーの立場から見ても本当に謎ですし、批評誌『ゲンロン』が出版されるまでに積み重ねられてきたであろう議論についても、ぼくはほとんど知りません。

なにぶん批評については知識があまりにも不足していて、『ゲンロン』自体についてすら理解が不充分という、実に中途半端な状態です。

ただ、青二才さんと、ゲンロン代表の東浩紀さんとについては、ごくごく表面的な経歴のレベルでなら、類似点を挙げることは可能です。


まず第一に、ブロガーあるいは批評家としての活動初期に置かれていた環境です。


青二才さんは「はてな村」、東浩紀さんは批評界、という、かなり複雑かつ厄介な文脈が堆積していたであろう環境に若くして登場し、先人たちから注目と厳しいマークを受ける立場に立たれたと思います。

その詳細は知るよしもありませんが、当時の界隈にあった抑圧的な空気や風当たりを間近で味わったであろうことは、両者の回顧談から推察されます。「青二才さんと東さんは、本質的によく似たものを見てきたのではないだろうか」というのがぼくの印象です。

これは、きわめて稀な立場であり、特殊な環境です。確立された応答のテンプレートや処世術などがあったとは思えません。逐一、自分の頭で考えて対処していく必要があったと思われます。(ブロガーあるいは批評家として、当然のことなのかもしれませんが)


第二に、その後の両者の姿勢――「ブログ」あるいは「批評」というものを、これからどうしていくのか考え、手を打ち続けるという姿勢です。


現在では、青二才さんも東さんも、一つの拠点を維持しながら、ブログ界・批評界全体の未来を考えていく立場にあります。ぼくの管見にもとづく印象ですが、両者ともに、その立場を放棄しないという姿勢は一貫しているのではないでしょうか。

そういった姿勢で事を進めていく過程で、御二方は、ブログ界・批評界に根を張っている各種の問題にぶつかり、直視してきたのだろうと思います。『ゲンロン』の共同討議でも語られている批評界の問題は、ブログ界の問題をしばしば想起させるものでした。

ここでもまた、「両者は、よく似たものを見てきたのではないだろうか」という印象が強くなります。


第三に、未来の経歴について。


個々のブロガー・批評家が、これから目指していく社会的立場についても、青二才さんと東さんの態度は似通ったところがあるように見えます。

青二才さんは、ブロガーがマスメディアの「ライター」というアガリに向かっていくことについて、違和感と拒否感を表明されています。

東さんもまた、批評家が「テレビ」や「大学」といった旧来の場に腰を落ち着けることについては、否定的であると思われます。少なくとも、東さん自身がそれを選択する確率は低そうです。

両者の経歴の類似関係は、今後も続いていくものと思われます。片や「ブロガー」、片や「批評家」という、前例がまるでアテになりそうもない特殊な経歴です。その過程で御二方が考えることには、今後も奇妙な符合が見られるのではないでしょうか。


以上、知識の不足を憶測で埋めようとしているため、たいへん歯切れの悪い回答になってしまいましたが、ひとまずはこんなところで。

補足

お答えしていく流れの中で、言い落としてしまったことが一点。


青二才さんも東浩紀さんも、往時の環境(昔のはてな村 / さらに昔の批評界)の中で潰れてしまった芽、実現しなかった可能性について、今もなお、語り続けています。


(御二人の今後の活動の意義を、ぼくたちブロガーが理解していくにあたっては、この点が最も重要な「見所」になるかもしれません)



ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

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互助会批判者は老害ですらない


老害扱いされることは承知の上的な身ぶりで何かを言っていますが、これはもう老害ですらありません。


「クソつまんない」「有益な情報」「面白い文章」「鋭い目線」「役に立たない情報」「実力で得た1000人のフォロワー」「見る価値」


本人の中では何かしらの意義を持っている言葉なのかもしれませんが、その本人のことを知らない私には、意義が全く伝わってきません。ペラペラの言葉です。


そういう言葉を聞き流して、さて残る主張はといえば、

「そういうことしてると、俺に嫌われるよ」 (誰?)

「おまえの葬式には行かないよ。村八分じゃすまないよ」 (どこの人?)

といった具合で、これは本当にインターネット用の文章なのだろうかという疑問まで湧いてしまいました。


ただ、「誤字脱字だらけ」というのは、よく解ります。こちらは数値化も難しくありません。お金やフォロワー数と同じように。

数だけが伝わる

近頃どうも、「保守のスキルが無い保守派」とでも言うべき人が目につきます。さらに平たく言うなら、「無能な二代目」。


何かしらの教養や、仲間内のツボを外さないセンスは持っている、少なくとも「自分は持っている」と思っているようなのですが、それをもってやる事はといえば、必読書150を挙げるでもなく、フォロワー相手に「バカ発見!」と騒ぐばかり。

これでは、影響力もジリ貧になってしまいます。遠からず、無力になるでしょう。齢をいくら重ねたところで、老害にすらなれません。


そのあたりはとうに見切られているのか、最近の若者は、PVにせよ広告収入にせよ、まず数を示します。そして他人が示した数に、熱い視線を注ぎます。どこかの誰かが引きずっている謎の価値体系など、意にも介しません。

「金には綺麗も汚いも無い」という物言いに対して、「いや、汚い金というものはある」「悪銭身につかず」なんてことを言うのは、老人古株のお定まりでしたが、それを言う者は、金額の多寡とはまた別の次元にある何らかの価値基準を背負っていたわけです。


しかしそれが、無能な二代目の時代になってしまうと、話が違ってきます。

親の世代の口真似で「これには価値がある」「こいつには価値がない」なんてことを言っても、次の世代にはそれだけじゃあ伝わらない。伝わらないから、三代目はもう数しか見ない。それで二代目は、ふてくされて仲間を集めて酒でもあおって憂さを晴らすしかない。

心に不安を抱えた人はとにかくよく喋ります。

苦悩する落語―二十一世紀へ向けての戦略 (カッパ・ブックス)

半分以上の噺家が、この先どうしていいのかわからなくなり、とりあえずバカラのワイングラスのようなプライドだけを守り、もしも壊れた時は、ひとつひとつの破片をノリづけしながら暮らしていくことになります。

苦悩する落語―二十一世紀へ向けての戦略 (カッパ・ブックス)

トップダウンボトムアップの雑種

「金には綺麗も汚いも無い」というのは、これはこれで、現代社会をうまく回していくためにある、一つの思想です。


王様がいない。貴族がいない。世間の風向きがコロコロ変わる。技術の進歩が速い。何と何とが組み合わさってどんな新しい商売が出てくるかも判らないし、何が人を幸せにするのかも決めつけられない。

そういった時代には、「とりあえず各々、思い思いの商品を提供してみて、メモリを売っても1万円、屁を売っても1万円で、結果的に金をたくさん稼いだ奴が、注目の集まる高い所で良い暮らしをすることにしよう」というやりかたが、向いているのかもしれません。


「しかし、それにも程度というものがある」と言い出して、古き良き価値観で社会のタガを締めるのが老人の本領というやつでしたが、今ではもう「程度」とか「良識」とかいう曖昧な領域でジャッジを行なう人間そのものが、不信の眼で見られ、さらには無視されるようになっています。


それもそのはず。長い年月をかけて出来上がった価値基準を、新参者に伝えていくのはとても難しい。一から愚直にやろうとすれば、とんでもない労力か説明能力を必要とします。

そしてどうやら二代目は、初代の価値基準だけをぼんやりと受け継いで、説明の手筋を学んでいません。


世代間の教育というものは、ただ説明をするだけでなく、天下りで呑み込ませていくしかない部分もありますが、二代目にはそういう器量も欠けています。上位の立場から確固たる何かを教えたそうなそぶりは見せますが、戦略と計画性がありません。保守派のわりに、バクチまがいの出たとこ勝負が体に染みついている。どうにもチグハグです。


ひどいのになると、同じ二代目同士でうなずきあって指差して嘲笑って、それで何かをした気でいる。ここまでくると、藁人形に釘を打つのと、たいした変わりはありません。結局、次の世代には、「なるほど。世の中には、大きな蛸壺と小さな蛸壺があるのですね」ということしか伝わりません。


そしておとずれたのは、やるべき事と自由が共にある御時世。まことにもって、ありがたいことです。

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